- Home
- 松山すきの歴史
松山すきの歴史
双用犂(そうようり)の発明
松山原造は、新農法とともに馬耕技術を指導しているうちに、抱持立犂には欠点があることに気づきはじめた。無床犂のために極めて安定が悪く、操縦にも強い腕力と高度の技術、熟練を必要とし、そのために払う労力が大きく、誰もが使えるものではなかった。
そこで、これを改良しようと考えたことが双用犂を発明する動機となった。
原造は、馬耕法を指導して歩くうちにいろいろな種類の犂を見聞きする。小県郡祢津村(現 東御市)で見た長床犂は、犂床が2尺5寸、全長が9尺という長大なもので、犂床が長い分深耕が出来にくいものの安定性は良かった。しかし、犂床が長いだけに犂の重量もあるので方向転換には労力を要した。また、その犂は右反転であったことから、犂床の必要性とともに反転方向の多様性も実感した。
そんなことから、犂床があって、往復に犂先の反転方向を変えられる双用の犂を考案し、試作につぐ試作を重ね、ついに会心の双用犂を完成させたのである。犂の枢要部である犂先は、従来鋳物製であったが鋼製にすることを思い立ち、木挽き用の古い大鋸から犂先を切り出し、先端やふちを硬く中央部を軟らかく焼き入れをして硬い土地や強粘土においての切れ味を良くし、さらに形も乳房型にして耕盤を平らに耕起できるようにした。
つぎに犂床は、四国型の長大な犂床を思い切って短くし、その幅も狭めて土の抵抗を少なくし、安定性を保持しつつ余分の抵抗を除き、犂全体の安定性・操縦性・牽引抵抗に優れた性能をもつ近代的な短床犂を作り上げた。
また深さの調節は、犂轅先端の犂釣の穴に耕槃かぎを上下に掛け替えることによって容易にできるようにした。
特にこの単鑱双用犂を完成するにあたって最も心血を注いだ点は、手元のレバーの左右切り替えに連動して犂先・犂へらを左右任意の方向に傾斜させる機能である。
往行と復行とで土の反転方向を変えて、常に同一方向に土を返転させることができたため、平面耕を行うにはきわめて便利で耕うん労働を省力化した。双用犂は、平面耕を必要とする寒冷地の畜力耕に適し、当時もなお牛馬耕の十分には普及していなかった東日本に、新たに牛馬耕をひろめるとともに、その耕うん技術に飛躍的な発展をもたらした。
苦難とのたたかい
創業時代は農業技術革新の黎明期にあって一般に理解されなかったばかりでなく、在来犂を販売・宣伝している人々の新しいものに対する反発もあった。
こういったなか、明治39年に優良畜力犂を選定する大日本農会主催の懸賞募集に入賞したことは、松山犂が認められていく足がかりになった。
大正5年に重要発明品として特許権存続期間の5カ年の延長が許されたが、それが切れると各地に改良松山犂・新松山犂等と称する模造品が出るようになり打撃を受けた。
しかし堅牢誠実な品質の真価が益々認識されて、松山犂の全国への普及は30万台におよんだ。